快庵

金戒光明寺について

春・秋は、特別拝観開催

会津藩本陣 新選組発祥の地

©水野克比古
 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(一八六二)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。文久二年會津藩主松平容保は、江戸城へ登城し、十四代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられた。會津藩は京都守護職に任命されるにあたり幾度か固辞をしたが、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)の「家訓」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母・田中土佐は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対した。  これにより君臣一丸となり、會津藩松平容保は家臣一千名を率い文久二年十二月二十四日京都三条大橋に到着、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた。
©水野克比古
 新選組と會津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。文久三年二月八日江戸小石川伝通院に集合した二百四十余名の浪士組は中山道を通り、京都へ出発した。 同二十三日京都の壬生へ到着、生麦事件発生により清河八郎他二百余名は江戸へ帰ることとなり、清河と意見を異にした近藤勇・土方らは、水戸浪士芹沢鴨等とともに京都残留を希望し、三月十日老中板倉勝静は京都守護職松平容保に浪士差配を命じ、京都守護職御預かりとなった。近藤・芹沢等は黒谷で京都守護職松平容保に拝謁がかなった。八月十八日の政変(七卿落ち)の日、武家伝奏より『新選組』の命名とともに市中取締の命を受け、都大路を縦横無尽に走り廻り治安は目立って回復した。新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日のように行われていた。このような時代背景で黒谷を通じ會津藩・新選組の関係が成り立ったのである。

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